社会人の大学入試と受験のリスクのはなし

死ぬ時に後悔するか・しないか?という判断基準

ずいぶん前の事ですが、ネットニュースでこんな記事を読んだことがあります。あるご老人のお話です。その方は私が記事を読んだ時点で故人でした。

若い時に進学したかったある有名な学校があったのですが、親の反対で行くことを諦めたそうです。しかしよっぽど未練があったのか、人生晩年になってから繰り返し言っていたのが

「本当は(若い時に親に反対されて諦めた)○○に進学して勉強したかった」ということ。

この方が亡くなった後、この話を聞いた○○という学校がご遺族に学校の入学案内を送付。親族の方が「本人も喜んでいると思います」とコメントされたというネットの新聞記事でした。

当時、その記事のコメント欄には「良い話だ」とか「感動した」というような肯定的なコメントが多数書かれていました。否定的なコメントはなかったように思います。

しかしこれを読んだ当時、私は考えさせられました。

もし自分だったら「ずっとやりたいと思っていたことをやらないまま、死ぬ時に後悔するのは嫌だな」と思ったからです(故人を冒涜する意図はありません)。

実際、この記事が記憶にずっと引っかかっていたことがきっかけの一つとなって、社会人の立場で入試を経験して早稲田大学に進学することになりました。

社会人から大学に進学してみて思ったことはいろいろありますが、一つは「何をやるのが正解とか不正解とかいうものは無い。人生は、寿命があるうちに経験値を増やすゲームに過ぎないのではないか?」ということでした。

何故かというと仕事のキャリアを中断して大学で勉強・研究対象に選択したのは数千年前の中国思想だったからです(すごく簡単に説明すると、誰もが中学の国語の教科書で見たことがある『論語』を勉強しに行きました)。

キャリアアップに活用できるMBAとかならまだしも、中国古典を仕事のキャリアを中断してまで勉強しに行くというのは我ながら「どうかしている」と思いました。

しかし結果論かもしれませんが、この選択を後悔したことは今まで一度もありません。

死ぬ時に「勉強したかったことを勉強しなかった」と後悔しないで済むようになったので、むしろ英断だったと思っています。

社会人の大学入試は「気になるなら受験してみればいい」

高校生が大学受験をする場合、受かるか落ちるかは人生の一大事です。何故なら、大学に落ちてしまったら浪人するなり妥協するなりしなければならないからです。現状維持というのはありません。

しかし社会人の大学入試は、最悪の最悪でも「現状維持」です。つまり落ちたとしても今のままの状況が継続されるだけです。これは実際、自分がサラリーマンをやりながら受験勉強していて思ったことです。

受験勉強しながらふと「もし入試に落ちたとしても、会社員を継続すればいいだけ。自分は日本一プレッシャーの無い大学受験生なのではないか?」と感じた事を今でも覚えています。

実際、今振り返ってもこの当時感じた事はその通りだったと思います。

「社会人の大学入試は、もし落ちたとしても受験勉強に費やした時間以外に失うものがない」です。社会的地位や信用が無くなるわけでも、収入が途絶えるわけでもない。今の状態に戻ってくればいいだけ。その意味ではリスクゼロです。

ですから、社会人で「大学に行きたい」と心のどこかで思っているなら、試しに受験してみればいいのです。もし縁あって合格したら、その段階で「本当に大学に行くか行かないか」を真剣に考えればいいだけです。